1978年に制定された航空規制緩和法は、アメリカ合衆国における航空業界において重要な転換点となる法律です。この法律は、長年にわたり連邦政府によって管理されていた航空業界を民営化し、競争原理を導入することを目的としています。
航空業界における制限を緩和することで、航空会社が自由に料金を設定できるようになったため、航空業界に大きな影響を与えました。
この法律により、新たな航空会社が設立されたり、航空会社が自由に路線拡大ができるようになったため、航空旅行が一般的になり、旅行者にとっても選択肢が増えることになりましたが、主要航空会社から、新しい法案に対する強い反発を生むという出来事もありました。
今回は、そんなアメリカの航空業界の転換点となったイベントを見ていきましょう。
航空規制緩和法(1978年)の概要
1978年まで、CAB(民間航空局)は運賃、路線、スケジュールなど、商用航空の多くの分野を規制していました。しかし、1978年の航空自由化法により、これらの規制の多くが撤廃され、アメリカの民間航空の姿が変わりました。規制緩和後、制限のない自由競争が乗客航空旅行の新時代をもたらしました。
CABには3つの主要な機能がありました。
- 航空会社に路線を割り当てること
- 新しい市場に航空会社の参入を制限すること
- 乗客の運賃を規制すること
アメリカ国内での商用旅客輸送の多くは、ハーバート・フーヴァー大統領政権下でアメリカ合衆国郵政長官であったウォルター・フォルガー・ブラウンの政策にさかのぼることができます。ブラウンさんは郵便料金のシステムを変更し、郵便物を運ぶ飛行機ではなく旅客機の製造を促進しました。
彼の影響力は、「ユナイテッド航空」「アメリカン航空」「イースタン航空」「TWA」の4つの主要な国内航空会社を創設するのに役立ちました。同様に、ブラウンさんは「パン・アメリカン航空」に国際路線の独占を与える手助けもしました。
ジミー・カーター大統領は、規制緩和、あるいは既存の旅客輸送業界に関する法律の改革を推進し、規制緩和を支持する経済学者で元教授のアルフレッド・カーンを民間航空局の長官に任命することで、その動きを加速させようと試みました。
規制緩和の第2の勢力は、アメリカ国外から現れます。
1977年、英国の実業家であるフレディ・レイカーは、「Laker Airways」を所有していた彼が「Skytrainサービス」を創設し、大西洋横断便のチケットを非常に安価な運賃で提供しました。
レイカーの新サービスと重ね、CABはチャーター便に関する制限を緩和することで、格安国内便の急増をもたらしました。
大手航空会社は新低運賃プランを提案して対抗しました。例えば、アメリカ国内地位第2位につけてたアメリカン航空は「SuperSaverチケット」を発表し、CABの承認を得ました。
これらすべての出来事が大規模な規制緩和にとって好都合であることが証明されました。
1977年11月には、議会が正式に航空貨物の規制緩和を行いました。
1978年末、エドワード・ケネディ上院議員とハワード・キャノン上院議員が中心となって起草した「航空規制緩和法」が議会を通過しました。
主要航空会社・労働組合の反発
この法案には、「自由競争を恐れる主要航空会社」「非組合員を恐れる労働組合」「安全を犠牲にすることを恐れる安全論者」から強い反対がありました。しかし、この法案に対する民衆の支持は高く、法案は無事成立しました。
法案は、大手航空会社に寛大な補助金を提供することで彼らをなだめ、労働者には、彼らの仕事を失った場合に高い失業給付を提供することで彼らを喜ばせました。
法律がもたらした影響の中でもっとも重要なものは、旅客市場(価格)に与えられたものでした。
新規航空会社は40年ぶりに市場に参入することができたり、自由にルートを拡大(1981年以降)することができたり、運賃を自由に設定すること(1982年以降)ができるようになりました。
CABは、航空業界を規制する主要な義務が不要になったため、1984年についに廃止されました。
まとめ
いつの時代も一部の人間は「今まで通り」を求め、変化を嫌う傾向にあるようですね。
色々な規制や法律などで守られている産業は、衰退すると聞いたことがあります。
アメリカの航空業界が発展したのは、「航空規制緩和法」の成立や、厳しく取り締まっていた「CAB」を廃止したことも要因の一つと言えるでしょう。
そういえば、「国土交通省航空局」は、「JCAB」というようですね……。
「水上飛行機」を使用した航空会社の設立を規制しているとかしていないとか…….。
参考文献:PHAK CH1