【フライトの歴史】初めてのパイロットライセンスからFAAの誕生

パイロットとメカニックの免許制度の開始

1927年4月6日に、パイロットの免許制度が開始され、初めて免許を手にした人は航空局支店長だった William P. MacCracken, Jr.さんでした。

その3か月後に、飛行機のメカニックの免許も初めて発行されました。

飛行機を操縦する側と整備する側に免許制度を導入し安全が向上しました。

航空機の安全をさらに向上させるため、航空局はBuhl AirSter CA-3という飛行機に耐空証明を発行しました。

航空業界に多くの変化をもたらせた航空局は次第に影響力を持ち始め、1934年に航空商務局という名前に生まれ変わりました。

航空商務局に名前が変わったころ、航空商務局とエアラインがタッグを組み、飛行ルートに3つのATC(Air Traffic Control)を設置することを促しました。

1936年、航空商務局はATCオペレーションやさらなる展開の権限を引き継ぎました。

初期のATCは、地図と黒板と暗算というアナログな方式で、飛行ルート上で航空機同士がぶつからないようにしておりましたが、それから大きな進歩を遂げました。

1938年の民間航空法

1938年に作られた民間航空法により、今まで民間航空機のルールなどを取り仕切っていた従来の組織から新しく設立された組織に、民間航空機の安全を管轄する権限が移されました。

その流れの中、新しく組織されたのがCAA(Civil Aeronautics Authority)でした。

当時の米国大統領だったフランクリンルーズベルトさんは、CAAをさらに2つの組織に分割しCAAとCAB(Civil Aeronautics Board)に分けることにしました。

CAAはATC、安全プログラム、航空路の発展に責任を持ち、CABは、飛行機の監督、パイロット免許の発行や停止に責任を持つと仕事が分けられました。

当時、両方の新組織は商務省の管轄のもとで作られました。

しかし、CABは商務長官の権限が及ばないポジションに設置されることとなりました。

1946年には、議会はCAAに連邦援助空港プログラムの指揮権を与え、これにより民間空港の設立をアメリカ全土に促しました。

1958年の連邦航空法

1900年代半ばには、ATCの技術は進歩し、ジェット旅客機が民間航空機の世界に姿を現し始めました。

空を飛ぶ飛行機の量が増えただけではなく飛行速度の増加に伴い、航空機同士の空中衝突の回数が増え始め、さらに安全を担保するための決まりが必要になり始めていました。

そこで、1958年に作られた連邦航空法により、新たな独立した機関である連邦航空局(FAA: Federal Aviation Agency)が設立されたのです。

FAAには、CAAの役割とCABのルールを作る権限が移管されただけではなく、一般市民軍事システムのナビゲーションとATCのコントロールをすることも許されました。

運輸省の設立と安全強化

1966年10月15日、会議により運輸省(DOT : Department of Transportation)が米国の交通手段の安全強化のため設立されました。

新しく設立された運輸省には、航空輸送と地上輸送の両方の指揮監督権が与えられました。

運輸省のミッションは、便利で効率的、安全かつ高速な輸送システムを全米に確立し、現在と未来の国民の生活の質を向上させることでした。

1967年4月1日に本格的な活動を開始ししました。

それと同じとき、Federal Aviation Agencyは、現在のFAA(Federal Aviation Administration)へと名前が変更されました。

航空業界が発展するに従い、1960年代には今まで発生したことがなかったハイジャックの問題現れ始めました。

この新たな問題を取り締まるため、FAAがハイジャックに関係する責任をカバーするようになりました。

FAAは航空機のハイジャックだけではなく、バスなどの地上で発生したハイジャックの指揮監督権もカバーするようになりました。

2001年9月11日に、国土安全保障省(DHS:the Department of Homeland Security)が設立され、ハイジャックなどの管轄をFAAからDHSに移管されることとなります。

さらに航空業界の発展により、多くの航空機が大きな町を行きかうようになり、これにより航空機の騒音が問題となり始め、FAAは航空機の騒音に関する規定を作成し取り締まりました。

1960年代、1970年代には、航空機の安全に支障が出るということで、500ft(152.4m)以上の高さに達するタコ上げや気球の規制も始まりました。

FAAは他にも空港の安全に関する強化を進めていきました。

ATCの半自動化

1970年代半ばには、FAAはコンピューターとレーダー技術を用いてATCシステムを半自動化することに成功しました。

繰り返し行われる作業を半自動化することにより、管制官は航空機同士のセパレーションを取ることに集中しやすくなりました。

航空機に搭載されたビーコンから、対地速度、高度、身元などの情報が管制卓に表示されるようになりました。

1978年に航空規制緩和法が施行され、エアラインの競争が激化したことにより航空交通量が増加したため、ATCの半自動化システムの更なる強化が必要とされました。

この法律により、1984年にCABにより発出された航空会社の経済規制を段階的に廃止する流れをうみました。

1982年1月に、FAAはNAS(National Airspace System)プランを発表しました。

この新しいプランは、さらに進化したターミナルATC、近代化されたフライトサービス、地対空監視とコミュニケーションにおける発展を促しました。

【参考文献】